今までmixiにメインで日記を書いていたんですが、
いくつかの理由で、ブログに主戦場を移してみようかと思っていて、
この日記とガルコミのブログにちょこちょこ文章を書いてまして。
そんな中で早速コメントがついていてちょっと嬉しくなりました。
まあただそのうち荒れると思うんで、
コメント欄もなくすとは思うんですが、笑
できるうちはリアクションするのも楽しいなあとは思っています。
それにしても、ガチで書いてる日記に、
一個もコメントついてない中に、
コメントつけるって結構勇気いることだと思うんですよね。
ありがとうございます。
まあでも、ブログとかで不適切発言した、とかで
炎上する有名人多いですよね。
でも無理ないと思うよ。
だって当然ながら全員の意に沿うような意見って存在しないし、
思ったことそのまま発言しちゃうこともあると思うし、
それがカチンとくる人もたくさんいると思うし、
でもそれって悪いことじゃないと思うんだけどな。
だって、思ってしまったことなんだもん、
それは間違いではないはずで、それ自体は批判されることでは
ないと思うし、きっときちんと伝わってないことが原因だったりも
すると思うし。
公共性を考えた発言、って本当に難しいよ。
見てくれる人が多くなればなるほど、
公約数を取るのは難しい。
僕は、最大公約数である”1”という数字になりたい。
”1”という存在でありたい。
でも、僕もいつまで公共性を考えながら発言出来るかは、
自信がありません。笑
僕の意見もきっとすごく過激だと捉えられることも多いだろうし、
嫌いな人もたくさんいるだろうし。
叩かれたもん勝ちだとは思うけど、
当然いやな気持ちにもなるしね。
でもそのへんのことって、どう折り合いつけたらいいのか、
未だにわからない。
昨日も巨人×中日の天王山的な試合があって、
それに対する巨人のコミュと中日のコミュみてて、
罵声やら批判やら称賛やら応援やらいろいろなコメントがあって、
公共性を考えて発言しろってみんな言ってて。
何憶ももらってるんだから批判されて当然だって言う人とか、
どの選手にだってファンはいるんだから気を遣え、とか、
言い争っていて。
そこに参戦したくはないけれど、
そこで闘っている人もいて、
何が良いのかはよくわからない。
選挙のことも同じ部分があって。
何がかってまあいろいろとあるんだけど、
興味がないわけじゃなくて、って書いたように、
自然と考えてしまってはいて、
特に僕はマンガ好きなので、麻生さんが好きで。
失言と評される部分が多いところもすごく好きで。
それは冒頭の話にも通じるんですけれど。
簡単に言ってしまえば、
人間力っていう点が大きいでしょうか。
小泉さんの人間力はきっとすごく大きかったんだと思うし、
麻生さんはきっと小泉さんほどの大きさはないのかもしれないけど、
僕にはすごく魅力的に映るし。
まあそれは政党的な話とは全然別問題ですが。
まあただ、やっぱりまだ、
1票を入れるっていう行為と、行かない、っていう行為の
プライオリティバランスを考えたとき、
行かない、という選択肢だと思います。
まあ色んな理由はあるんだけど、
行かない、っていう選択です僕の中では。
僕の1票がどこにもいかないのはもったいない、
ってすごくありがたい話なんですが、
それならもう少し僕の人生の身近に来るように、
僕といわず僕の周りのひとたちにもっと身近であるように、
制度と文化が流れていればいいのになって思います。
もうひとつのタイミングは、
さっき読んだ、横山健のブログでも選挙について言及されていて。
そのまま転載します。
*******************************
投票日は8月30日。この日は Ken Band も出演する大阪でのフェス「Rushball 09」の開催日だ。フェスにくる人で選挙権を持っている方々は投票所に寄ってから会場に来るか、当日が無理なら必ず不在者投票をしてくる様に。
民主なんかは声高々に「政権選択選挙」などと言っているが、正直言って我々にとってはどちらが政権を取ろうが、大した問題ではない。
そうじゃないか?
ニ大政党制など、日本には馴染まない。イギリスにしてもアメリカにしてもニ大政党の支持層はハッキリしている。イギリスには労働者階級が根強く残っているし、アメリカには白人層と黒人層がある。日本は…今、自民党が失態が多いから民主党…まぁそんなところだろう。民主党の幹部のほとんどは元自民党だし、名前が違うだけだ。民主党の生え抜きの議員が党を掌握する時代にでもなれば、また何か変わってくるのかもしれないが。
ならばなぜ選挙に行くのか?どんなボールも振らなきゃ当たらんからだ。
我々若者(オレは若者ではないが)にとっては「政権選択選挙」でもなんでもなく、「行くのか行かないのか選挙」だ。
ワケが分からなくとも選挙に行けば、結果がどうなったか少しは気になる。その結果を受け、ニュースも少しは理解出来る様になる。そうすると政治家の好き嫌いも出てくる。「この人の顔が生理的に受け付けない」とか、そんなんでも良い。すると発言とかが気になる。しばらくすると政治のコトがなんとなく分かってきた様な気になる。「消費税取られてんだぜ、こっちは…」とか抵抗無く言えるようになる。それでいいじゃないか。
無関心が一番の悪だ。
*********************************
僕は、無関心が一番の悪だ、とは全く思っていなくて。
というか、無関心であること自体はどう考えても僕には
仕方のないことだと思うんです。
バンドのオーディションがあって、
僕が1票入れてくれよ、って懇願したとして、
でもその制度自体の問題だとか、バンドに対する興味がないとか、
いろいろな点はあるにせよ、
それ自体に興味がなければ投票しないわけで、
それはもう興味ないんだもんしょうがないじゃん、
ってことであれば、それ自体を批判しても
しょうがないと思うんですよね。
自分に興味がないおまえが悪い、
って言ってるのと同じことのような気がして、
僕にはそこまでのことは言えないです。
どっちかっていうと、
興味持たせる力のない、
本人の問題だろ、って思う。
リリィノートに興味持てない、って言われれば、
それは興味をもたせられないリリィノートに問題があると思うし、
リリィノートに力が無いんだと思うし。
それは麻生さんにしても、政治にしても同じで、
興味を持てない人に、興味無いのが悪い、っていっても
話が進まないような気がしていて。
僕も、どっちが政権をとろうが大差ないとは思うし、
(自分の生活という意味では特に)
名前が違うだけで民主党の人も元自民党だったりもするし、
それもそうだと思います。
(その点だけいえば、名前が違うのは考え方が変わったからで、
マニフェストとか全然違うんだから一緒くたにするのは
よくないなあとも思いますが)
ただ、振らなきゃ当たらないボールも、
暴投なら見逃せばフォアボールになるんです。
自分に向かって飛んでくる球ならね、
よけなくちゃ痛いです。
痛いのがわかってても、当たるメリットがあれば
当たるのもいいかもしれない。
でもまだ、自分に向かって飛んでくる球じゃない。
暴投気味のウェストボールなんですよね。
行くのか行かないのか選挙
だとするなら、僕は行かないよ選挙です。
そして、派遣も育児も年金も景気も、
制度の問題じゃなくて、自分の問題だとしか、
まだ思えないからです。
ボールに例えるんであれば、
投げてくる場所がわかんないのに当たってるようなもんで、
出所を突き止めるために探しにいく、とか、
そういうモチベーションはなくて、
来たたまをどうよけるか、くらいしかできない。
実際の自分の身の回りで起こりうる可能性の中で、
どれを最優先に処理しなくちゃいけないか、っていうポイントが
一番高いと僕は思っていて、
制度を改革する(選挙に行く)っていう選択肢はすごく遠い所にあって、
制度の中で自分の問題をどう解決するか、
の方がよっぽどプライオリティが高いです。
多数決で決められた人が決めたものが正しいかどうかなんて
全くナンセンスじゃないか、とすら思います。
そういう意味で、横山健のそのブログの別のトピックスの、
フェスのダイブの話も同じ点があって、
ダイブするっていう禁止ルールがあってそれを徹底するかどうか、
とかじゃなくて、
ダイブする自由を奪われるかどうか、
とかじゃなくて、
実際禁止されているダイブのはずなのに実際は起こってるんだから、
当たってケガするかもしれないからモッシュピットには
入らないでおこう、と判断すること、とか、
今回はダイブが禁止されているからそれは守ろう、とか、
禁止されていて、やったら退場だけど、
退場になってもいいからやろう、とか、
自分の出来る範囲でのどのプライオリティを選択するか、
だと思うんです。
僕の意見でいえば、
ダイブ禁止って謳ってるのに徹底してなかった主催者が悪い、
わけじゃなくて、
ダイブ禁止って謳ってるのに徹底されてないことくらい見ればすぐ
わかるはずで、
それを楽しんでいる人たちもいっぱいいて、
それなのにモッシュピットゾーンにいたから仕方ない、
だからそれを主催者に文句言う気持ちもわかるけど、
そこはグレーゾーンだからこそいい部分もある、
とも思うのです。
逆に、多数決じゃ決まらない、って点でいえば、
たーーーっくさんの人がダイブすることを楽しみにしてるのに、
一人がケガをしたから、それによってたくさんの人の楽しみが
制限される、っていうこともあるわけで、
それはそれでひとつの答えではあるとも思います。
交通事故も通り魔も、なんでもそうで、
可能性を挙げればキリがない中で、
罰則とルールがあって、リスクを承知のうえで、
ものすごい少ない確率のものに当たってしまったら、
それはもう仕方ないことで、世の中は平等なんかじゃない、
ってことだと思うしかない。
世の中は平等じゃないから頑張れるわけだし、
そこで叫んでいても助けが来ないことなんてざらにある。
禁止事項は自由を奪われることじゃない。
行動に伴うリスクが増えるだけのこと。
リスクがないものなんてそうそう存在しない。
それが多いか少ないかの違いくらいでしかないような気がします。
リスクとチャンスとメリットとデメリットを天秤にかけて、
行動するしかないのは、いつだってなんだって
どの問題だって同じなんだと思うのです。
だからこそ僕は、
言ってしまえば、
殺人も戦争も、悪だ、って言いきることはないと思っていて、
それに伴うリスクとチャンスとメリットとデメリットがある、
っていうことくらいしかはっきりしたことはなくて、
善だとか悪だとかっていう二元論自体が、
すでに前時代的でしかないとしか思えないんです。
法律を基準にしても、
過去の時代に悪法であったものなんて腐るほどあるし、
今の世の中で正しいとされていることも、
何かの拍子にあっという間に変わってしまう。
善悪の判断で決断できることの幅は、
既に本当に少なくなってしまったような気がします。
僕は、全てをトータルして、
プライオリティをつける、ということでしか
判断できないんじゃないかと思っていて、
そのプライオリティの基準をどこにもってくるかで、
世界が変わっているんじゃないかと思っているみたいです。
どこに基準をもっていくか、というのは、
自分、なのか、家族を含めた自分、なのか、
共同体を含めた自分、なのか、
日本を含めた自分、なのか、
世界を含めた自分、なのか、
人類だけじゃない生物を含めた自分、なのか、
地球のすべてを含めた自分、なのか、
宇宙まで含めて考えられるのか、
ということ。
それが広ければ広いほどいい、
っていうことなのかなあ、とか
漠然と答えを考えたりしていて、
でも結局還ってくるところは自分という個体なのか?
とかも考えたりして、
それはまだ結論がはっきりとは見えないんですが、
それが法律やお金に代わる価値判断の基準として
世界標準になればいい、と思ったりしています。
(もう一つの価値基準として、
時間 っていうものも大事なものだと思っているんですが
ちょっと別の話なのでまた今度)
地球=自分である
と100%思うことができれば、
そして全生物がそう思うことができれば、
もしかしたらそれが宇宙を含めた全生物・無機物の
公約数”1”なのかもしれないな、と思うのです。
だから、
一番最初の話に戻ると、
きっと守るものをもって、
自分以外のものを自分だと捉えられるように
自然に考えられるようになれば、
きっと選挙にも行くようになれるんだと思うんですが。笑
今はまだそこまで思えていないんです。
思えるようになれるかなあ。
いくつかの理由で、ブログに主戦場を移してみようかと思っていて、
この日記とガルコミのブログにちょこちょこ文章を書いてまして。
そんな中で早速コメントがついていてちょっと嬉しくなりました。
まあただそのうち荒れると思うんで、
コメント欄もなくすとは思うんですが、笑
できるうちはリアクションするのも楽しいなあとは思っています。
それにしても、ガチで書いてる日記に、
一個もコメントついてない中に、
コメントつけるって結構勇気いることだと思うんですよね。
ありがとうございます。
まあでも、ブログとかで不適切発言した、とかで
炎上する有名人多いですよね。
でも無理ないと思うよ。
だって当然ながら全員の意に沿うような意見って存在しないし、
思ったことそのまま発言しちゃうこともあると思うし、
それがカチンとくる人もたくさんいると思うし、
でもそれって悪いことじゃないと思うんだけどな。
だって、思ってしまったことなんだもん、
それは間違いではないはずで、それ自体は批判されることでは
ないと思うし、きっときちんと伝わってないことが原因だったりも
すると思うし。
公共性を考えた発言、って本当に難しいよ。
見てくれる人が多くなればなるほど、
公約数を取るのは難しい。
僕は、最大公約数である”1”という数字になりたい。
”1”という存在でありたい。
でも、僕もいつまで公共性を考えながら発言出来るかは、
自信がありません。笑
僕の意見もきっとすごく過激だと捉えられることも多いだろうし、
嫌いな人もたくさんいるだろうし。
叩かれたもん勝ちだとは思うけど、
当然いやな気持ちにもなるしね。
でもそのへんのことって、どう折り合いつけたらいいのか、
未だにわからない。
昨日も巨人×中日の天王山的な試合があって、
それに対する巨人のコミュと中日のコミュみてて、
罵声やら批判やら称賛やら応援やらいろいろなコメントがあって、
公共性を考えて発言しろってみんな言ってて。
何憶ももらってるんだから批判されて当然だって言う人とか、
どの選手にだってファンはいるんだから気を遣え、とか、
言い争っていて。
そこに参戦したくはないけれど、
そこで闘っている人もいて、
何が良いのかはよくわからない。
選挙のことも同じ部分があって。
何がかってまあいろいろとあるんだけど、
興味がないわけじゃなくて、って書いたように、
自然と考えてしまってはいて、
特に僕はマンガ好きなので、麻生さんが好きで。
失言と評される部分が多いところもすごく好きで。
それは冒頭の話にも通じるんですけれど。
簡単に言ってしまえば、
人間力っていう点が大きいでしょうか。
小泉さんの人間力はきっとすごく大きかったんだと思うし、
麻生さんはきっと小泉さんほどの大きさはないのかもしれないけど、
僕にはすごく魅力的に映るし。
まあそれは政党的な話とは全然別問題ですが。
まあただ、やっぱりまだ、
1票を入れるっていう行為と、行かない、っていう行為の
プライオリティバランスを考えたとき、
行かない、という選択肢だと思います。
まあ色んな理由はあるんだけど、
行かない、っていう選択です僕の中では。
僕の1票がどこにもいかないのはもったいない、
ってすごくありがたい話なんですが、
それならもう少し僕の人生の身近に来るように、
僕といわず僕の周りのひとたちにもっと身近であるように、
制度と文化が流れていればいいのになって思います。
もうひとつのタイミングは、
さっき読んだ、横山健のブログでも選挙について言及されていて。
そのまま転載します。
*******************************
投票日は8月30日。この日は Ken Band も出演する大阪でのフェス「Rushball 09」の開催日だ。フェスにくる人で選挙権を持っている方々は投票所に寄ってから会場に来るか、当日が無理なら必ず不在者投票をしてくる様に。
民主なんかは声高々に「政権選択選挙」などと言っているが、正直言って我々にとってはどちらが政権を取ろうが、大した問題ではない。
そうじゃないか?
ニ大政党制など、日本には馴染まない。イギリスにしてもアメリカにしてもニ大政党の支持層はハッキリしている。イギリスには労働者階級が根強く残っているし、アメリカには白人層と黒人層がある。日本は…今、自民党が失態が多いから民主党…まぁそんなところだろう。民主党の幹部のほとんどは元自民党だし、名前が違うだけだ。民主党の生え抜きの議員が党を掌握する時代にでもなれば、また何か変わってくるのかもしれないが。
ならばなぜ選挙に行くのか?どんなボールも振らなきゃ当たらんからだ。
我々若者(オレは若者ではないが)にとっては「政権選択選挙」でもなんでもなく、「行くのか行かないのか選挙」だ。
ワケが分からなくとも選挙に行けば、結果がどうなったか少しは気になる。その結果を受け、ニュースも少しは理解出来る様になる。そうすると政治家の好き嫌いも出てくる。「この人の顔が生理的に受け付けない」とか、そんなんでも良い。すると発言とかが気になる。しばらくすると政治のコトがなんとなく分かってきた様な気になる。「消費税取られてんだぜ、こっちは…」とか抵抗無く言えるようになる。それでいいじゃないか。
無関心が一番の悪だ。
*********************************
僕は、無関心が一番の悪だ、とは全く思っていなくて。
というか、無関心であること自体はどう考えても僕には
仕方のないことだと思うんです。
バンドのオーディションがあって、
僕が1票入れてくれよ、って懇願したとして、
でもその制度自体の問題だとか、バンドに対する興味がないとか、
いろいろな点はあるにせよ、
それ自体に興味がなければ投票しないわけで、
それはもう興味ないんだもんしょうがないじゃん、
ってことであれば、それ自体を批判しても
しょうがないと思うんですよね。
自分に興味がないおまえが悪い、
って言ってるのと同じことのような気がして、
僕にはそこまでのことは言えないです。
どっちかっていうと、
興味持たせる力のない、
本人の問題だろ、って思う。
リリィノートに興味持てない、って言われれば、
それは興味をもたせられないリリィノートに問題があると思うし、
リリィノートに力が無いんだと思うし。
それは麻生さんにしても、政治にしても同じで、
興味を持てない人に、興味無いのが悪い、っていっても
話が進まないような気がしていて。
僕も、どっちが政権をとろうが大差ないとは思うし、
(自分の生活という意味では特に)
名前が違うだけで民主党の人も元自民党だったりもするし、
それもそうだと思います。
(その点だけいえば、名前が違うのは考え方が変わったからで、
マニフェストとか全然違うんだから一緒くたにするのは
よくないなあとも思いますが)
ただ、振らなきゃ当たらないボールも、
暴投なら見逃せばフォアボールになるんです。
自分に向かって飛んでくる球ならね、
よけなくちゃ痛いです。
痛いのがわかってても、当たるメリットがあれば
当たるのもいいかもしれない。
でもまだ、自分に向かって飛んでくる球じゃない。
暴投気味のウェストボールなんですよね。
行くのか行かないのか選挙
だとするなら、僕は行かないよ選挙です。
そして、派遣も育児も年金も景気も、
制度の問題じゃなくて、自分の問題だとしか、
まだ思えないからです。
ボールに例えるんであれば、
投げてくる場所がわかんないのに当たってるようなもんで、
出所を突き止めるために探しにいく、とか、
そういうモチベーションはなくて、
来たたまをどうよけるか、くらいしかできない。
実際の自分の身の回りで起こりうる可能性の中で、
どれを最優先に処理しなくちゃいけないか、っていうポイントが
一番高いと僕は思っていて、
制度を改革する(選挙に行く)っていう選択肢はすごく遠い所にあって、
制度の中で自分の問題をどう解決するか、
の方がよっぽどプライオリティが高いです。
多数決で決められた人が決めたものが正しいかどうかなんて
全くナンセンスじゃないか、とすら思います。
そういう意味で、横山健のそのブログの別のトピックスの、
フェスのダイブの話も同じ点があって、
ダイブするっていう禁止ルールがあってそれを徹底するかどうか、
とかじゃなくて、
ダイブする自由を奪われるかどうか、
とかじゃなくて、
実際禁止されているダイブのはずなのに実際は起こってるんだから、
当たってケガするかもしれないからモッシュピットには
入らないでおこう、と判断すること、とか、
今回はダイブが禁止されているからそれは守ろう、とか、
禁止されていて、やったら退場だけど、
退場になってもいいからやろう、とか、
自分の出来る範囲でのどのプライオリティを選択するか、
だと思うんです。
僕の意見でいえば、
ダイブ禁止って謳ってるのに徹底してなかった主催者が悪い、
わけじゃなくて、
ダイブ禁止って謳ってるのに徹底されてないことくらい見ればすぐ
わかるはずで、
それを楽しんでいる人たちもいっぱいいて、
それなのにモッシュピットゾーンにいたから仕方ない、
だからそれを主催者に文句言う気持ちもわかるけど、
そこはグレーゾーンだからこそいい部分もある、
とも思うのです。
逆に、多数決じゃ決まらない、って点でいえば、
たーーーっくさんの人がダイブすることを楽しみにしてるのに、
一人がケガをしたから、それによってたくさんの人の楽しみが
制限される、っていうこともあるわけで、
それはそれでひとつの答えではあるとも思います。
交通事故も通り魔も、なんでもそうで、
可能性を挙げればキリがない中で、
罰則とルールがあって、リスクを承知のうえで、
ものすごい少ない確率のものに当たってしまったら、
それはもう仕方ないことで、世の中は平等なんかじゃない、
ってことだと思うしかない。
世の中は平等じゃないから頑張れるわけだし、
そこで叫んでいても助けが来ないことなんてざらにある。
禁止事項は自由を奪われることじゃない。
行動に伴うリスクが増えるだけのこと。
リスクがないものなんてそうそう存在しない。
それが多いか少ないかの違いくらいでしかないような気がします。
リスクとチャンスとメリットとデメリットを天秤にかけて、
行動するしかないのは、いつだってなんだって
どの問題だって同じなんだと思うのです。
だからこそ僕は、
言ってしまえば、
殺人も戦争も、悪だ、って言いきることはないと思っていて、
それに伴うリスクとチャンスとメリットとデメリットがある、
っていうことくらいしかはっきりしたことはなくて、
善だとか悪だとかっていう二元論自体が、
すでに前時代的でしかないとしか思えないんです。
法律を基準にしても、
過去の時代に悪法であったものなんて腐るほどあるし、
今の世の中で正しいとされていることも、
何かの拍子にあっという間に変わってしまう。
善悪の判断で決断できることの幅は、
既に本当に少なくなってしまったような気がします。
僕は、全てをトータルして、
プライオリティをつける、ということでしか
判断できないんじゃないかと思っていて、
そのプライオリティの基準をどこにもってくるかで、
世界が変わっているんじゃないかと思っているみたいです。
どこに基準をもっていくか、というのは、
自分、なのか、家族を含めた自分、なのか、
共同体を含めた自分、なのか、
日本を含めた自分、なのか、
世界を含めた自分、なのか、
人類だけじゃない生物を含めた自分、なのか、
地球のすべてを含めた自分、なのか、
宇宙まで含めて考えられるのか、
ということ。
それが広ければ広いほどいい、
っていうことなのかなあ、とか
漠然と答えを考えたりしていて、
でも結局還ってくるところは自分という個体なのか?
とかも考えたりして、
それはまだ結論がはっきりとは見えないんですが、
それが法律やお金に代わる価値判断の基準として
世界標準になればいい、と思ったりしています。
(もう一つの価値基準として、
時間 っていうものも大事なものだと思っているんですが
ちょっと別の話なのでまた今度)
地球=自分である
と100%思うことができれば、
そして全生物がそう思うことができれば、
もしかしたらそれが宇宙を含めた全生物・無機物の
公約数”1”なのかもしれないな、と思うのです。
だから、
一番最初の話に戻ると、
きっと守るものをもって、
自分以外のものを自分だと捉えられるように
自然に考えられるようになれば、
きっと選挙にも行くようになれるんだと思うんですが。笑
今はまだそこまで思えていないんです。
思えるようになれるかなあ。
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